お祈りのスタンス
このところ、「フランシスコの平和の祈り」を唱えています。
そのなかで、他人に何かをしてもらうのではなく、自らする側であることを説く部分があります。
慰められるよりも慰める者に、
理解されるよりも理解する者に、
愛されるよりも愛する者に、
これは、「語りかけ」のワークで「本当の私」がパターンにしていることをそのまま表しています。
パターンとしては「理解されたい(わかってほしい)」ものですが、「私」がちゃんとわかってあげられるものです。「私」が理解するものです。
愛されるということも、以前、自分は愛された体験がないから愛するなんて無理と思っていましたが、「語りかけ」をやることで、「本当の私」がパターンを愛するということを繰り返して、愛されるよりも愛する者に近づいてきたように思います。
慰められたい、理解されたい、愛されたいというパターンで生きていくのか、「本当の私」がそれらのパターンを慰め、理解し、愛するのか。
「語りかけ」のワークによって、慰め、理解し、愛する者として既に生きています。
「私」がパターンの一番の理解者であり、パターンのすべて引き受ける。
そのスタンスは、このお祈りそのものです。
*フランシスコの平和の祈り*
主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、
争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、
絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、
悲しみあるところに喜びを。
ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、
愛されるよりも愛する者に。
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
許すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。