スパイスも、梅も、日向夏も
今、読んでいる鈴木大拙の『無心』という本に、身体と土について書かれている箇所があります。
『無心』鈴木大拙(角川ソフィア文庫 P.109)
すなわちここに体というものがあれば、それを入れている土というものがきっとあるのです。身と土というものは形影相伴うというべきものなのです。したがって体というものがあるならば、国土という、その体をおくものがなければならない。そうしてこの土と体というものは、どうしてもその性質において相一致したものでなければならない。それゆえ、浄土というような国土には阿弥陀という体をもった光明に満ちた体をもったものがいなければならない。また阿弥陀の側からいえば、阿弥陀のような光明の仏様はどうしても極楽浄土というような国土にいなくてはならないのです。
この身と土の関係を考えるとき、スパイスも、梅も、日向夏も、身と土をつなぐものなのだと思い、体にしみいるのを感じます。私たちは衣食住全般を五感を通して、恵を得たり、あるいは枯渇感を味わったりしながら、土とつながり、享受しているとも言えます。
「阿弥陀のような光明の仏様はどうしても極楽浄土というような国土にいなくてはならない」というのも面白いです。
このことでイメージするのは、自分と自分がいる環境です。
たんたんと自分と向き合い続け、自分自身の意識レベルを上げるのみ!と帰結するのも、その時その時の自分自身に適した世界にアクセスするためかもしれないです。身と土があって、心がそこをシーソーのようにとり持ちながら進んでいるように思います。
ワークなどをしながら「私」の領域にいるときというのは、体は娑婆にありながらも心は浄土で遊んでいる、そんな体験をしているのかもしれないな、、、と思うのです。
▼ 普遍的な魂の学びは、実践を通して自分自身の学びとすることにその面白さがあります。
ぜひ、内なる眼差しを持って自らの世界を探求しましょう。
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