「はい。消化不良です」
先日のバレエ教室でのこと。センターレッスンで次々にいろんな動きが出てきて、先生が説明くださってから、私の方をぱっと見て、「岩崎さんは・・・・消化不良ですか?」と聞かれたので「はい。消化不良です」と答えました。「・・・そんな、すぐにできるようにはならないから。」と先生。
先生はきっとマスク越しの私の表情を感じ取って、私が「アワワ・・・」となっているのがわかっているのでしょう。まぁ、自慢じゃないですが、できないのは一目瞭然なので、私としては毎回必死についていくのみ!として取り組んでいるセンターレッスンなのです。
それでそのことについてちょっと思ったことがあります。それは、先生から消化不良?と聞かれて、自分が、消化不良ですと答える一連のやりとりが、自分の中でまったくひっかかっていないということ。
以前の自分は、できない、わからない、ついていかれないなどということが許せなかったから、先生からそういうことを言われたら間違いなく、ひっかかっただろうと思うんです。そして「はい。消化不良です」なんて口が裂けても言えなかったのではなかろうか。あるいは認めたとしても、相当な悔しさが自分の中で渦巻いていたのではなかろうか・・・
日記を書いていて思い出しましたが、昔、お料理教室に通わされたことがあって、そのときの先生から「全然できないのねー」と呆れ顔で言われ、「できないから来てるんだろーが!」と当時の私は頭にきてお教室をやめました。・・・例えば、そういうことです・・・「そうなんです、できないんです」とならなかった。
できない、わからない、ついていかれないことがあれば、そういう自分にものすごく頭にきていたし、認めることができなかったんですね。自分よりもデキる子に教わりなさいとか言われた暁には、悔しくて悔しくて仕方なかった。ちっ!と思ってました。屈辱だったんです。パターンとしてはデキないと、優れていないと存在することが許されなかったのでそういうふうだったんだと思います。
そのあたりのパターンと向き合ってきているからということもあるとは思いますが、全くできないものの中に身を置くというのは、パターン的なプライド、みっともない・恥ずかしい・バレエに関しては「下着のような格好ではしたない」(今ではすっかり”道着”)などなどをぶち壊し、歪さが削れて、自分自身が磨かれていくように思います。差別的な視線も崩れていっているかもしれない。
いずれにしても「消化不良」であっても自然にいられている自分にかなりの進歩を感じました。それだけ私という人間はすっごく未熟なのです。