最近、心がけていること。瞑想のような「語りかけ」。お母さんのように、お父さんのように、パターンを見守り、寄り添う「語りかけ」。こどもを育てるって、こどもを愛するって、こんな気持ちかなーーーとふと思います。
お寺の境内の枝垂れ桜の下に入ってみました。

以前、盛岡で、枝垂れのカツラの木があって、こういう「パイプ」もいいじゃない?という話になり、「パイプ」と聞いて、キュッキュと磨くプラスチックのパイプをイメージしていたけれども、そうなのか、、、と思ったことを思い出しました。
それから、自分のパターンをパイプにこびりついた「汚れ」のように見ていることに気付き、反省。
枝垂れ桜の下に入ってみると、しっとりとした静けさに包み込まれるようです。花は終わり葉が生い茂っています。葉の大きさに大小はあるし、格好も少しずつ差があり、風に揺られて向きもバラバラ。夏はより一層濃い緑色になって、秋は赤や黄色に、あるいはグラデーション状に紅葉して冬になると葉が落ちるでしょう。ぜんぶ落ちても、また春が来れば生い茂り、葉っぱはずっとそこに生きています。木が寿命を終えるまで。
このことは、色々なパターンがいて、ひっかかったり、それほどでもなかったり、盛大にひっかかったり、落ち着いたり、息を潜めていたり、新たに生まれたり、、、ということと重なります。その間、パターンはずっとそこにいます。自分の肉体が死を迎えるまで、共にある存在です。
この時、パイプは無機質なプラスチックではなく、もっと生き生きしているものに感じられます。
「私」はパターンを愛している。
