「すべてを疑え」

「すべてを疑え」

2021年01月17日 11:12

大学でゼミに入った時、教授から最初に言われたことは「すべてを疑え」でした。それは先生が言っていることも、過去に偉人が行ったことも、ぜんぶ含めて。そのとき「げ〜っ、大変だな。めんどくさっ!」と思いました。なぜなら、正しいからそれをもとに進めば大丈夫と言ってくれたほうが楽ですから。その先から考えていけばいいわけだし。
でも、これは今思うと、自分が体験してないものはすべて仮説なんだから、一つひとつ自分が検証して、自分で自分の真実を見つけろ!ということだと思います。そのための歩みがすでに先人が解明していたことだったとしても決して無駄ではない。大切なのは自分自身の体験。
いま、あらゆるものが不明瞭でそれゆえ多くのひとが不安に陥っていると思います。そういうところへ、「これが真実です!」と言う輩が現れ、それに対し、「これは正しい。この人の言っていることは信頼に値する」として、ゾロゾロとついていっているような、しかもそういう流れがいくつもあるような、、、そんな気がしています。「すべてを疑え」です。
ニュースでさえそうで、映像の画角外で起きていることは写ってないのでこちらには見えません。写っていたとしても前後は写っていない(あるいは編集されて切り落とされる)。しかも上から撮っているか、下から撮っているか、それだけでも映像の印象は変わるもの。だから、ニュースだって「ふーん、そうか」という受け止めで十分。
そして、「そうやって真実を求めているのは誰なのか?」自分に問うことです。「自分は真実を知らされていない」そんなふうに思っているのは自分の中の誰なのか?大勢から虐げられて、社会からはじかれて、誰も自分を大切に扱ってくれず、悔しい思いをしている自分のパターンではないでしょうか? しかも、それさえ自分のパターンが作り出していること。
本当の自分の心をよりどころにして、その発露を生きるにあたり、真実は不要です。なぜならそれが、真実だから。真実って生きることそのものなのかも、って思います。