認識の主体

認識の主体

2017年08月30日 20:58
昨日の「一水四見」のなかで、「認識の主体」ということば出てきましたが、これは実は、自己観察の上でとても有意義です。
もんもんと考え事をしているときなど「いったいそれを考えているのは誰?」と一瞬問いかけると、他人の言動に傷ついた自分だったり、悔しさや屈辱を感じている自分だったり、敗北感を味わっている自分だったりして、そういった感情が出ている「パターン」(「用語集」を参照ください)も見つけやすかったりします。
先日私のした経験では、ぺらぺら、ぺらぺらと饒舌な自分がいて「この口は、いったい誰の口?」と思ったとき「それは自分は正しい」というパターンだったのでした。そのパターンが自分の正しさを証明したいばかりに饒舌に語っていたわけです。
ついこないだも、うちに帰ってきてもんもんとしていて、「いったいそれを考えているのは誰?」と問うてみれば、それは「わかってほしい」というパターンで、(他人が)自分が思うようにわかってくれなくて、悲しんでいるのでした。
なので、河を見る者は誰か?を置き換えて、それを言っているのは誰か?それを考えているのは誰か?その行動をしているのは誰か?それを選んでいるのは誰か?などと自問すると、面白いと思います。