かつて自分もそうだった

かつて自分もそうだった

2023年06月28日 06:46

盛岡の資料館で見かけた『雲を紡ぐ』(伊吹有喜・著)を読み始めました。

街の景色がところどころ出てくるので、お話の中でちょっとした観光を楽しんでいます。

そこで、ある特徴的なことに気がつきました。

その小説の登場人物のメインは、父親・母親・高校生の娘です。

特徴的なこととは、それぞれがそれぞれの言動を自分のパターンで受け取って、勝手に傷つき、勝手に悲しみ、勝手に不機嫌になり、すれ違っていく様が描かれている点です。

それぞれが「相手がこう言った」ということは怒っているに違いない。とか、「相手がこういう表情をした」ということは嫌っているに違いない。などと勝手に分析し、決めつけて、それに基づいた行動をするというように、パターンに基づいた言動が繰り広げられます。

でも、実はその時、相手はまったく別の思いを持っていることが、登場人物の語り手が変わるときに読者にはわかるようになっていて、本当にパターンが勝手に受け取って、勝手に分析して、勝手に言動するというのは、人間関係をどんどん本来、望んでいるかたちから離し、ちぐはぐにしていくものだとお話を読んでいて思いました。

でもね、、、かつては自分もそうだった、と思い出しました。

思い返せば、そのことだけに思考のほとんどを費やしていたと言ってもいいでしょう。

相手がこう言った、ということは、きっとこう考えているのだろう。だとしたら、自分はこう言えば、相手はこう出るに違いない・・・というように。そこに自分自身のパターン「相手を自分の思い通りにしたい」「自分は正しい」がからんできますから、ジャッジとコントロールで思考は延々と続き、終わることがありません。

私自身は、もうほとんどこういう思考はしなくなりましたが、きっと多くの人がこういう日常を生きているのだろうと思います。

この小説でも描かれているように、たいてい、相手の思いは別のところにあるもので、なんとかそちらのほうが表れる関係性がつくれないものかと、うーむ・・と見守りながら、希望を持ちながら、読んでいます。

『雲を紡ぐ』は、第1章が「6月 光と風の布」、第2章が「6月下旬 祖父の呪文」、第3章が「7月 それぞれの雲」というように、ちょうど時期的に今でした。

これから第4章「8月 美しい糸」を読み始めます。この先、人間模様がどのように紡がれていくのか、楽しみです。