お節介な子ども
私は、子供の頃、「お節介だ」とよく言われていました。そのことを思い出しました。
人のことに首を突っ込んで、あれこれやりたがって、余計なお世話を焼きたがる。そういうことをしては、うるさがられてました。今、思うとなんですが、自分がここにいるということをわかってほしかった。そのようにして自分という存在を実感したかったんだと思います。
その根底にあるのは「寂しさ」です。
「寂しさ」を抱いている人は大勢いるように思います。いろんな事件の犯人像からは特に絶望的な「寂しさ」を感じます。
ちょっとした、日常的なやりとりでも、そのときに相手が向ける自分への注意(意識を注ぐという意味で)、軽い会釈やほんのちょっとした一言「スイマセン」「ありがとうございます」などで、カサついた心にひとしずくの癒しがしみわたっていく。
そういうことってあるだろうと思うんです。
それを求める気持ちが度を越すと、アテンションプリーズ!(私を見て!!私のことをかまって!!)となって、さらには「お節介」になっていく。
自分の中にある「寂しさ」のパターンに耳を傾け、寄り添ってあげます。