それは誰の手柄なのか?
〔魂の道場〕で先生が語ってくれたエピソードに、自分のアイディアが横取りされて、発案者ではない人が称賛され、自分には日が当たらず悔しい思いをする、というものがありました。その時に、「自分の」ということにこだわらなければ、「別にいいいじゃない、譲れば」というところに落ち着くのですが、、、
これに似た経験を私もしてまして。発案時は白パターンを選んで多くの人にとって良いアイディアだ!とひらめいて取り組んでいたのですが、その後のプレゼンテーションは別の方がやられて、その時の “反響の良さ” に私のパターンが大きく騒いで「それ考えたの、アタシです、アタシ!!」という気持ちになったのでした(笑)
しかしですよ、自分がやったと思ってるものも実はそうではなかったり、自分のものだと思っているものも自分のものではないというところに立ってみると、そして、もともとの動機に立ち戻ると、それは私のものだ!私がやったのだ!と主張しなくてもいいと素直に思ったりもします。
結局のところ、価値や評価でずっとやってきている人生だから、自分がやったのか、誰のものなのか、誰の手柄なのか、帰属が重要になるし、そこにこだわる。そこから抜けたいのか、そこに居続けたいのか。意識しなければ、たぶん、そのまま居続けます。でももう、価値や評価で優劣を競わなくてもよい、そういうところで自分を成り立たせなくてもよいと思うとしたら、どうでしょう。自ずとありようが変わっていきます。
ここでもやっぱり自分の黒パターンを満たすために仕事を利用していたんだな、、、ということがわかりました。
でもね、もう、それはやめます。
さ、なんだかまたまた寒くなった東京です。「魂の学び」を娑婆での実践に変換していきます。