選び続けることで
私にとって、自分がここにいると認められた実感がないこと(それはつまり、自分と共に、「今ここにある」という人がいなかったという意味)による不安や恐怖はすごく大きく、そのことから、「認められたい」「何者かでありたい(特別、上、一番など)」というパターンは生まれたのだと思います。
そして、そういったパターンが満たされたり(快)、満たされなかったり(不快)を繰り返して、やがて自分を見るということへと導かれて、その自分を見ているのは誰か?というところで「私」という存在を育てていくことになったのだと思います。
「自分がここにいる」という体験には手応えのような、インパクトのようなものがありますが、「本当の私」という存在にはインパクトや手応えはなく、「ここにある(いるというよりは、ある)」と表した方がしっくりくるような、ふんわりとした広がりです。ただ言えるのは、自分の感情や感覚をたどってパターンを見つけたり、ワークをしたり、「私」、「私」、、と「私」を意識する時、「私」の存在を実感しているということです。
自分がここにいるという存在確認はパターンがそれをしたがっているということと、不安・恐怖があるから、確かな何かを求めがちです。あらかじめ確かな何かを手に入れようとするのではなく、確かにそこにあるのはわかっているのだけれどもいまいち掴みきれない何かを、自らの手で輪郭を探り出し、徐々にあらわにするような、全く使ってない体の部位を使うことで初めて、あ!ここに筋肉あったんだーみたいな・・そういうものなのだと思います。
だから、もう、認められたいとか何者かでありたいとこだわり続けなくていい。その安らぎを与えられるのは「私」だけだから。そして、ふんわりとした広がりを持つその選択をしているのは「私」で、その選択こそが「私」が実践しているもの。だからそれを選び続ける・・・そのように選び続けることで、「私」は存在する。
▼ 普遍的な魂の学びは、実践を通して自分自身の学びとすることにその面白さがあります。
ぜひ、内なる眼差しを持って自らの世界を探求しましょう。
https://jiseijuku.com/session/