平凡とは縁の遠い世界を生きてきた
これから何回かにわたって「平凡」について考えてみたいと思います。
私は、自分が「平凡」と言われても、いまいちピンとこないところがあります。
なぜかというと、自分が平凡だという実感がない、思い当たるフシがないからです。そこには、自分への、他人からの「評価」が大きく影響しています。子供の頃から、海外生まれ・海外育ちという点で一般的な人、普通とは違った。それは大人になっても継続しました。その体験は「私は特別」というパターンも生み出して、自分を成り立たせてきたと思います。
ここで一つ、エピソードを。
以前の仕事で、われわれ日本人女性2人で、ソウルにある韓国の食品メーカーにプレゼンに行った時のこと。日本の市場について説明する際「ふつうの日本人女性は・・・」と自分たちのことを引き合いに出し、話しました。すると社長さんから「でも、あなたたちはふつうの日本人女性ではないですよね?」と言われました。「ふつうの日本人女性は、韓国でプレゼンしないですよね」と。「んー、でも、われわれも普段、近所のスーパーで買い物しますし、うんぬん」と、提案の根拠が崩れないように、いかに自分たちも「ふつう」かを力説したのでした。
それで、その時のことなのですが、社長からそう言われて、根拠が崩れてしまいかねない焦りで冷や汗をかいた一方で、私は「くすぐられた」ようにも感じていました。こういう「君は、どう考えても普通ではないよね」という他人からの言動を私はいっぱい受けてきています。これは日本でもそうだし、外国でもそう。そんなふうにして、平凡(一般的、普通)とは縁の遠い世界を生きてきました。
今思えば、それが自分の価値を決めるのではないのですが、そこはやはり未熟な自分。それが自分の価値だと思って、「私は特別」というパターンや「存在を認めてほしい」というパターンが満たされていました。自分が言っているのではなく他人がそう言っているという客観性も伴って。そうして無意識のうちにパターンをどんどん大きくしていったのだと思います。