自己探求のキッカケ
多様性万歳!というように、何らかの考えをデモンストレーションをすることって、最近よく見かけます。SNSの発達で拍車がかかっているのかも知れないですね。そういう動きについて私がまず思うのは、世の中から受け入れてもらえず、傷ついたり理不尽な思いをしたり、という体験は、やっぱり自己探求のキッカケとして、与えられているんだということです。私は、デモンストレーションをする人たちから悲しみや怒りを感じるので、そう捉えます。
それで、例えデモンストレーションをして、映画やTV番組や歌のモチーフとして概念が広まり、市民権を得て、多くの人に認めてもらえたように実感したとしても、自分自身がそこに向き合わない限り、根本的な癒しはないし、いつまでも周りのせいにし続けて、そこに止まってしまうんじゃないかなぁ??と思うんです。「世の中から受け入れてもらえない人」という "役" を演じ続けてしまうのでは?ということです。どうでしょう?
自分が否定された/受け入れてもらえなかった/認めてもらえなかった/嫌われた/拒絶された・・・といったことによる悲しみや痛みは、本当の自分ではなく自分のパターンの悲しみや痛みです。それは語りかけというワークを使って、自分でも癒すことができます。また、白黒ワークというもう一つのワークを用いれば、さらにそこを超えていくことも可能です。新たな意識へと選び変えてそれを選び続けることで、人として成長することもできるのです。
そういった道も、実はあるんです。何が自己探求のキッカケになるかはわかりませんが、とりあえず、す〜ごく嫌な思いをしたときは、キッカケと思っていただいてよさそうです。