今日も歩みを続ける
今朝の東京は晴れ!清々しい空気と小鳥の鳴き声に誘われて、近所の神社まで、あさんぽ(朝のお散歩)しました。神社のあたりには木がたくさんあって、歩いているだけでとても心地よく、気が洗われるようです。
久しぶりに桃太郎(小屋の中からこちらを静かにまっすぐ見ていました、馬です。)にも「おはよ〜〜〜げんき〜〜〜〜?」と挨拶をして。山羊の雪ちゃんは寝ていたのか、ンメェ〜〜〜〜は聞こえませんでした(笑)
神社でお参りをして、毎月置いてある「生命の言葉」(令和3年5月版)を手にしました。
怠らず 行かば千里の 末も見ん
牛の歩みの よし遅くとも
____ 坂 静山 ばん せいざん
牛の歩みのように たとえゆっくりでも
怠らず続けていけば 遠い道のりでも
たどり着くことができる
どんな歩みでも怠らなければたどり着く。ということは、どんな歩みでも怠ればたどり着かないということか〜。
ナルホドと思いました。怠ってもいいと思うんです。なんか怠けたい時だってあるし。でも、それが常になってしまうとたどり着かないので、「怠ると進まない」「怠ると何も変わらない」という体験のために、怠るのはありだと思います。結局、やらないとどうにもならないと自分で気づくから。そのためには一つひとつ、軽く捉えてやってみるのがよいと私は最近思っています。
また、やってるのにたどり着かない場合は、やり方を見直したほうがいいです。何かやり方が違っているのではないか、自己流になっているのではないか、見直す。私は「語りかけ」のワークが形だけになる傾向があるんです。だから、パターンに気付いたらパターンの声に耳を傾けて、(通常ですとここでパターンが不快に思った理由を3つほど書き出しますが、それをせずに、)そこから語りかけてみたりもしています。
それもトライ&エラーです。やってみて、ダメだったら、あ、違ったんだな、で、また次、やってみる。気付いたら基本に戻っていたということだってあるかもしれません。パターンの声に耳を傾ける時の自分の「本当の私」の立ち位置の再確認だってそう。「本当の私」とパターンとの距離感を十分にとって、離れたところから語りかける感覚を探りながら、「本当の私」はパターンの王国を司る王様、、なんだよな、とか。パターンの話をふむふむと聞いているカウンセラー、、なんだよな、とか。で、やってみる。そしてこれも、いろいろやってみていい感じだったらそれでいって、違ったらそのアプローチはやめる、、、。
そうやって怠らず続けて行くことで、やがて、千里の末が見え、たどり着くんだなと「生命の言葉」に後押しされた朝です。今日も歩みを続けます。