もたらされる気づき

もたらされる気づき

2019年04月21日 21:12


骨董品のコレクターだった方のお話を少しうかがう機会がありました。

その方は、自宅を整理されホームに転居する際に、これまでコレクションしてきた品々のほとんどを手放されました。

コレクションを手放す時には一つひとつ綺麗に写真に撮ってアルバムを作ったのですが、のちにそれを見た時「なんて馬鹿なことを自分はしたのだろう」と思ったとのこと。それは、処分をしたことがではなく、それらのアルバムを作ったことが。

あほらしくなってそのアルバムも全て処分。結果、とっても身軽になったそうです。コレクションの数々は全部ここに記憶でとどめておくの、と頭を両手でしっかりと押さえておっしゃっていました。

今でも骨董は好きで、素敵ね、と思うことはあるそうです。若い頃は「これ欲しい、あれ欲しい」と買っては自分のものにしていた。それらを所有できたことについてはとっても感謝している。でも、もう所有はしない、と静かにおっしゃっていました。

それで、その方は最後に「・・世の中に絶対はないわね。自分の心も移り変わるし。世の中に絶対はない。」と話されました。

私はこのお話を聞いて、気づきのきっかけって劇的とは限らない、ということに気づかされました。(「もう、いい加減、目を覚ましなさい」と言わんばかりのドラスティックな出来事とか、精神的に、あるいは物理的に痛い目に遭うとか。)

この方の場合は骨董のコレクションを通じて、気づかれました。気づきってどんなことを通してでも、本人にもたらされるものなのだ、と思ったのでした。


▼自分と向き合い〔今のそのままの自分を愛すること〕を目指していくセッションを行っています。