そっちに行きたい。
「認められたい」というパターンの一部でもある、自分が安心していられる居場所を求めるパターンと向き合ううちに、<もう、そこにこだわり続けなくてもいいのかもしれない> <もう、自分の居場所をどこかに求めなくてもいいのかもしれない> <もう、認められなくてもいいのかもしれない> というように自分の心が移っていっているのを感じます。
なぜならば、「私」が育っているから。パターンが「居場所」に求める安心感は、そこにしかないから。
一方で、パターンが認められることの限界・狭さを体験として知ったのかもしれません。それってすっごく小さなこと。大したことではない。
パターンが得る満足・”快” は、限定的で限界があります。その場、限り。しかし「本当の私」が選ぶ “快” は、一瞬一瞬が連続してそこにあり、限界はありません。ただし、それを「 – – – – – – – – 」と、選び続ける必要があります。これがやがて一本の糸になって素敵な布を織りなす時まで。
認められることよりも魅力的な何かが出てきているのかもしれません。
「何」とはっきりとは言えないのですが、その先にあるものに魅かれます。
こっちではなくそっち。そっちに行きたい。