なにかができるということは、なにかができないということ

なにかができるということは、なにかができないということ

2020年07月25日 10:57

今日の日記は、これまでの人生で、人と比べて、成績が良かったり、高く評価されたり、ことあるごとに褒められたり、すごいね!って人から言われたり、特別な力や体験があったりして、「自分は特別」「自分は上」で生きてこられた方(わたしも、そう。でも、パターンですからね、あくまでも)に向けて書きました。
石黒智子さんという方のエッセイを読みました。『60代シンプル・シックな暮らし方(それは小さな工夫の積み重ね)』
以下は、この方が生花教室に通っていた時のお話です。
・一番快適だったのは、威張る人がいなかったこと。何年通ってもヘタな人は、あるとき自分の限界に気づき、でも言い訳をしない。才能のある人を素直に認め、かなわない人がいるということを自分の中で昇華します。
・一人ひとり見えるものが違うこと。なにかができるということは、なにかができないということです。生け花を超えた独自の世界を見つけ出していくのです。
・子どもだった私は、ほかと比較をしない豊かな生き方と、日常における美意識の大切さを学びました。自分の知っていることを相手が知らなかったとき「この人は自分の知らないことをたくさん知っているのだろう」と思えるように育ちました。
・生け花に才能のある人は、自分にはない能力を目の当たりにするからなのでしょう、生けた花をどんなにほめられても、うぬぼれることなく常に謙虚でした。
(『60代シンプル・シックな暮らし方』p.235 生け花を通して知ったこと より抜粋)
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私は、子供の頃から、学校教育などを通して「できることはいいことだ」で育ってきているので、それは「できないことはダメ、ありえない」というパターンも生み、なんとか「できるように」してきました。才能のある無しとか、関係なく、まんべんなくすべてができるようでありたいと思って、そのために努力をしていました。だって、とにかく、できることはいいことだからです。「なにかができるということは、なにかができないということ」という見方は、これまでの人生で培うことはなかったです。
これまで、「できない」ということは許されなかったですし、自分でも許すことはなかったです。「できて当たり前。」「できるまでやれ。」「できない、は、ない。」という感じです。「できない・ダメ・間違い・誤り」なんてことになったら、パターンは存在していられないものね。そんなことになったら、パターンは、この世の終わりだとか、消えてなくなりたいとか、思います。また、職場とかだと、全員がそう思って仕事してたりするから、なお一層、ですね。
「なにかができるということは、なにかができないということ」というのは、自他への尊厳だと思います。
何かができることが人間として優れているわけでも、価値があるということでもないし、だから君はそこにいていいんだよ、ということでもない。また、できないということが人間としてダメで、劣っていて、低くて、生きている価値がないわけでもない。そういうふうに考えているのは自分のパターンであって、「本当の私」ではない。
心の中に湧き立つ不協和音(パターンの不満)に静かに耳を傾けながら、「ジブンは上だ!上だ!わっしょい!わっしょい!」というパターン神輿をおろして、本当の自分の位置・場所を、ちゃんと認めて、受け入れていこう。そういう自分になろう。そこに、尊厳があるから。それが、愛だから。