「葡萄園の主人のたとえ」をYouTubeで年末に聞いてから、もやもやしたものが心にあり、何かのパターンに引っ掛かっているので日記に書きながら見ていこうと思います。
マタイによる福音書20章の「葡萄園の主人のたとえ」では、ぶどう園の主人が朝早くから夕方遅くまで日雇い労働者を採用し続けて、朝早くから働いていた人も、夕方から働き始めた人も同じ賃金(1デナリ)が支払われました。労働時間の長い短いに関わらず、全員同額です。
この話で、私はたぶん「朝早くから働いていた人」にあたると思います。賃金は作業量(作業時間)に比例すると思ってるので、このような支払われ方は不当に感じます。けれども雇い主は、自分は誰に対しても「1デナリ」を支払いたいのだからいいだろうと言って、全員に「1デナリ」を渡したのです。
私は「なんで?なんで8時間働いた人と1時間しか働いていない人が同じ賃金なわけ???おかしくない??」と思います。賃金(恵み)は労力・作業量に比例して与えられるべきとパターンは思っているからです。そうであるとこういうとき、「自分の労働が報われていない。正当に評価されていない」とパターンは受け取ります。
たぶん、葡萄園での仕事は好きだったはず。きっと働くことが喜びで1日の仕事にも満足していたはず。にもかかわらず、です。
自分の人生を振り返ると、この話のように、自分が思うような成功(=報酬、評価、成果、成長、ご褒美)が得られなかった、とパターンが受け取ることが度々あります。その原因は「動機が間違っていたから」とか「パターンで行動していたから」です。
で、パターンとしては「ちゃんと努力すれば成長する(ちゃんとやらなければ成長はない)」「私はちゃんとやっている」というものがあるのだと思います。かけた時間やお金など「こうすればこうなるはずだ」という条件(期待・意図)の世界を生きている。
でも葡萄園の世界は、こうすれば〜とか時間や量の概念が取っ払われています。この話で表現されているのは、期待や意図がない、特別な思いもない、よかったら〜という最大限の尊重と、無条件の愛なのだと思います。1デナリは、葡萄園に来た全員に与えられる愛。
葡萄園が「この世」だとしたら? と考えてしまいます。
