成長とは
成長って、ちょっと高みにあって視線をやや上に向けているようなところがあって、高いところにある一点の目印を目指して一歩一歩登っていくイメージがあったように思います。
ところが、今回の体験を経て、私がしたような気がする「成長」は、安堵感であり、赦しであり、視線は水平あるいは、やや下に向いていて、広がりがあります。目線が「上」ではないんです。「上」というよりも「遠く」かもしれません。立ち位置も、先とか、高いところではなく、今いる場所から離れることはない。ここにいたまま物事の受け止め方が変わり、成長した気がします。
これは意外でした。想定外。
これまで私が目指していた「成長」は、そこに到達すれば達成感があり、手応えがあり、わかりやすい、周りからの承認・賞賛や成果が得られるかもしれない、獲得しにいく(手に入れる)タイプのものでした。
しかし、蓋を開けてみれば、達成感はないし、手応えもないし、承認もない、たぶん人にはわからないし、そもそも周りに誰もいない。自分から手を伸ばして獲得しにいくというよりは、気づきを通して与えられたようなものです。あるのはホッとする気持ちだけ。
それで、これまで私は「魂の成長」に「実態的成長」を求めていたんだと思いました。想定外だったのは、つまりそこに「手応え」も「実態」もなかったから。喜びも嬉しさもない。あるのは「ああ、そーかーー。いいんだー。」という安堵感のみ。そういうつかみどころのない、手応えのないふんわりした感覚は、極めて非実態的です。
私は自分で成長や成果を得ようとしていたし、そのために努力や精進をしてきましたが、これは「得るもの」ではないな、、、というのが今の私の実感です。
そして、ひょっとすると、魂の成長って、我々誰もが常にしていて、そこに肉体・思考・個性を合わせていくっていうことが起きていることなのかもしれないとも考えました。
そういうわけで、ここではないどこかへ向かって成長していこうとしなくていい。このままの自分でいい。これでいいんだ、、、という気づきとそこにある無条件の安堵感。それと共に歩もう、と今は思っています。