VR

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2021年12月28日 08:19

VR技術の開発に携われている方とお話しする機会があり、そのなかで、主体的であることの大切さを感じました。ちょっと話が複雑になるかもしれないのですが書いてみます。
VRに送り込むものとしてアバターがあります。アバターには、リアルな自分の身体に装備をつけて自らが操作するイメージが浮かびますが、実はアバターの動きにリアルな自分が追従するということも可能だそうです。たとえば手足を負傷した際のリハビリとして、アバターを使うことで自分の手足の可動域を徐々に広げる、、なんていうこともできそうです。
VRのゲームなどでは、かなり激しいアクションを自分自身の身体はまったく使わずに、ただそのときの感情や感覚を体験することができそうですよね。ゲーム自体を私はまだやったことはないですが、そういうシーンを見たことはあります。
ここで問題になってくるのが「主体性」です。それをやっているのは誰なのか(少々哲学的でもあります)。下手をすると、アバターに自分自身の心が乗っ取られかねない。心理的な主体性がアバターに移ってリアルな自分がアバターの人生を生きるようになるかもしれないのです。
このことを検証するVRの実験では、ふだん色々な状況を人のせいにしない人(自分で物事を引き取る傾向にある人)は、他(アバター)とリアルな自分が混合していることに敏感に反応する(主体がどこにあるか気づいていられる)らしいです。自他の境目がわかるという感じでしょうか。
ということは、他罰・他責傾向(人のせいにする傾向)にある人がVRの世界にはまると、自分とアバターの差がつかなくなり、リアルな自分がアバターに乗っ取られていてもわからず、無責任に生き続けることになるのかも。
ここで私は、アバターってパターンに置き換えられると思いました。パターンというのはまるで仮想空間で作り出したアバターのようだと思ったのです。
もっとも、アバターの主がパターンを無意識で生きていたら、そのアバターはそのパターンを思うように仮想空間で満たせるでしょうから、パターンをますます大きく強くさせるだけ、ということにもなりそうです(笑)
では、現実の世界はどうでしょうか?
パターンというものを知らず、無意識にパターンに乗っ取られた状態で生きているとしたら?それはさながらVRのようです。いずれにせよ、それをやっているのは誰なのか。VRの広まりとともに、人々は、行為主体を認識して生きたくなってくるようにも思います。