追い込みの軽減
鈍重で劣等であること、できないということ、これらは「ダメ」である。人としてありえない、存在することはできない、生きていくことはできない・・・そのうように「非力であってはならない」というパターンは思っています。
そのなかで、バレエというのは、自分にとってまさに「鈍重で劣等であること、できない」ことで、そのなかに居続けるとき、私はダメな人間としてどうあるべきか?というところで行動していたと思います。ダメな人間としてそこにいる感じ。ダメなのだから、常に低姿勢で低くあるべき、真剣に話は聞くべき、その他の人たちと比べて自分には1ミリの価値もないのだから、例えば床の清掃とかゴミ捨てとか、バレエのスキルがなくてもできることは全部自分がやるべき。そういった姿勢でいたと思うんです。
これはバレエに限らず、ふだんから。そんなふうに自分を追い込んで、お前には何の価値もないのだから、人様にとってはお前などいてもいなくてもどうでもいいのだから、人のために何倍も動かないと生き抜いていくことはできない・・そんなことをパターンは思い続けて頑張っていたんだなーーーということを改めて思いました。
だから、自分が他人から”優れている”と評価される場面では、できない人たちのことを上記のようにジャッジします。できないんだからできない人らしくしろ!頭(ず)が高い!みたいな感じで。最近、バレエのおかげで、この辺りの「追い込み」が自分に対しても他人に対してもだいぶ軽減されてきたように思います。
バレエでは、できない人(ダメな人)として参加するというよりは、純粋にただバレエを習う人としてそこに臨んでいます。これはやはりその人の尊厳を大事にするバレエの神的な作用があると思います。
体の位置など「ここはこう!」(グイッと背中や脚を先生が押す)と教わりますが、そうできていないあなたはダメだ!だからあなたはダメなんだ!と言われたことは一度もありません。こちらも「ダメな人」としてそこに参加してないですし、先生も「ダメな人」として見てはいない。一生徒として自由にレッスンに参加している(参加させてもらえている)状態です。
これはきっと社会においてもそうで、一人の人間として自由にそこに生きている状態なのだと思います。そうであっていいんだよ・・ということだと思います。