自分の歩みについて
自分の歩みについておぼろげながら見えたものがあったので書き記しておこうと思います。
自分と向き合う前に自分がいたミーム、今までのミーム、今自分がいるミーム、その上のミーム、そさらにその上のミーム、、、と階段を上るように少しずつ(ほんの数ミリの話)意識レベルが進化しているわけですが、あー、、と思ったのは、今までの自分はできてきた。意識レベルを上げていくのも、前の段階でできたように、できてきた。しかし、自分はその「できる」ということが足枷となり、失敗をしないと(「できない」を経験しないと)新たなありかたへと行かれない、ということです。
これは、「自分はできる」というパターン(これまでの経験則)が行く手を阻んでいるということで、そこにちゃんと向き合い、新たなあり方を選ぶ。それが「私」のありたいあり方なのだと思いました。
「できる体験」を多くしているとあらゆることへのハードルは低く感じ、大概のことは思い悩むことなく(パターンにひっかかることなく)やれてしまいます。ただしそれは、そのミームレベルでの話。能力偏重なのです。知性やスキルを使ってやれてしまう。そこに「愛」はないのです。
先日の勉強会での「哲学の発表」がその典型的な出来事でした。そのときの条件は、聞き手が納得する発表をすること。なので、みんなそれぞれ、えー??どうやったら納得してもらえるのかなぁ?と考えたと思います。
私も考えました。でも私にはこれまでの経験から一つの方法が見えていました。それは「論理的に書く」ということです。で、実際そのように書きました。
一方で、「えー??どうやったら納得してもらえるの?」というパターンと向き合い、「等身大で書けばいい」という白パターンを「私」が選んだ、そのような仲間の発表とはそこから感じられるものに雲泥の差がありました。「私」が介入している分、「愛」があるのです。私の発表には「愛」はありませんでした。パターンにもひっかからず、「頭」でわかっていたからです。(その割に情報量が多すぎて散々な発表になってしまいましたが)
「合理性は人をかなり進歩させてくれるが、頭での理解の先に進むには大きなブロックになる。500(愛)を超えている科学者が少ないのはそのためである」とエネルギーレベルに関する資料に書いてありましたが、それってこういうことかもと思いました。自分はわかる、自分はできる、どんな課題も知性で解決できてしまうことの悲劇です。できてしまうと、別な方法は考えないものです。私はたまたま、共に学ぶ仲間のおかげで、自分が「できていないこと」(頭での理解にとどまっていること)に気がつきました。これは「私」のセッティングだと思います。
自分が「できていないこと」を突きつけられるのはパターン的にはひっかかるし、不快な感情を伴う出来事ではあるのだけれども、この「できていない」「できない」という体験は、私が「頭での理解」の先へと向かうキッカケになります。
自分の歩みって、こういうふうに「できてきた自分」を壊して、「どうありたいのか?」と進む方向を考え、思い出し、そして前へ進んでいくということなんだな・・・と思ったのでした。