曖昧さの中で
自分自身に曖昧さをゆるし、曖昧さの中にいる・・・ということをやってみています。
すぐに答えを出していきたくなるところを抑えるわけですが、ここで初めて感じたことに、なんでもすぐにはっきりさせることの味気なさがあります。どことなく希薄な、シラケる感じです。
答えを出そうとしているのは誰なのか?というパターンの存在もさることながら、そもそもその答えを出したところでそれは、自分という限界の中での答えであって、何を言ったって、他人にわかる言語を使う以上、思考の枠外には出られないわけです。所詮、自分が導き出しやすいことを言っているに過ぎない。そうしてさらに思考の枠を強固にしていく。
そうであるとき、言い表しにくいことや言葉にならないものはどうなっちゃうのでしょうか?そこにあるものを自分が理解できないゆえに、思考の枠内の導き出しやすい場所に入って来なくて、あるのにもかかわらずないものとされてしまう。
こう考えると、曖昧さの中で、思考としてまとまらないもの、形や言葉にならないものとも一緒にいられたら、何だかよくわからないものと共に生きていかれるかもしれないですね。いちいち思考化しないで。思考として決めないで。
それは、ただ余白的なところに漂うような、新しい体験を私にもたらします。