問題解決考
一般的に人々は問題が起きた時にその解決を求めますが「本質的な解決は誰も望んでいない」のではないかと思われます。(時と場合によるけれども)
その背景には、
– 本質的な解決をすることはできないと思っている。
– そういうものがあることをそもそも知らない。
– 本質的な解決という踏み込んだことはしたくない。
– 自分では解決できない。お手上げだ。
– 誰かに丸投げして、誰かが解決してくれることを望んでいる。
といったことがあると思うんです。
ソリューションビジネスと言われて久しいですが解決策を提供している企業からしたら、そこに問題があり続けることほど安心なことはありません。その意味では、常に問題を生み出す仕組みを持っている会社は強いと思います。
ただし、本人たちもお客様もずっとそこに居続けることになります。
私は、今の世の中というのは、ひょっとしてそういう構造に組み込まれているのでは?と思っているんです。成長や進化、自立を唱えつつ(聞こえがいいからね)も、そこに居させてしまう仕組みが成り立っている。
問題を探して責め立てて対立構造をつくりだし、なんとかして自立を阻み、非難の応酬に全員参加で取り組んでるような。自立させない社会構造。
自己探求というのは自己解決です。自分に起きたことを自分が引き取り、理解し、ケアして、選び変える。他人はそこに一切関与しない。そこで問題が問題でなくなり、本質的な問題解決へとつながります。
自己探求について、やれ「宗教」だの、「時間がかかる」だの、「あなただからできるのでしょう」というようなイチャモンをつけるのはなぜかと言えば、本質的な問題解決という未知なる領域への恐怖心があるのと、今の状態で居続けることの楽さがあるのだろうと思います。虚しくてもそこそこ生きられていてヒドイ人生でなければ、めんどうなことをしたくないという気持ちも湧くことでしょう。
そうして虚しい茶番劇から逸脱しないように、自ら「非成長」「非進化」「非自立」の人生を望んで生きるということですね。これは悲劇では?!