不寛容な社会
最近の社会は、不寛容な社会と表現されているのを知りました。グーグル検索すると、ここ数年、そのように言われているようですね。
とあるミーティングの場で、「不寛容な社会で私たちはどうすればいいのか」みたいな話になって、「・・・非常に難しい問題だ・・・テン、テン、テン、、、」で終わったんですが、たぶん、自分自身への不寛容さが表出しているんだろうなーと私はあとから考えていました。
もしかすると、今の社会は、自分のことが嫌いな人であふれているんじゃなかろうか。だから芸能人のように「うまくいっているように見える」人が不祥事を起こしたりすると、一斉にたたくのでは。
日頃のうらみつらみのすべてをそこにぶつけ、要は、憂さ晴らしの機会を常にうかがっている社会なのでは。
自分がちょっとでもうまくいかないと(そんな自分のことが)嫌になって、気に入らない他者を引っ張る。←これは、日常的に起きている気がしています。
そうすると血気盛んな感じになって、パターン的には活力が漲るような気がするし、一種のサバイバルモードなのでしょう。でも本当に元気になっているわけではないから、何度も何度も繰り返す。そうこうしているうちに大事になっていく。
しかも、他者をたたいたところで、自分の実力が上がるとか、自分のスキルや資質が磨かれるとかもないので、自分自身は全く変わっていないワケですし、パターン的には黒パターンが大きくなる一方で、むしろマイナスです。
では、そんななか、私たちはどうすればいいのか。それはやっぱり自分の中を見るに尽きると思います。
自分は優れていると思っていたのは自分のパターン(幻)だったんだ、とか、「正しさ」もそれなしには生きていかれないほど自分は弱い人間なんだ、とか、自分を知る。
自分の中にほんのり明かりを灯して、ほぐしてあげることで、自分に対して「そうか、、、そうだったんだね、ジブン。」と寛容さを取り戻し、その結果、他者のあり方がそこまで気になることもない、他者へ不寛容な態度を当てつける気も特に起こらない、そういう人間が集まる寛容な社会が表出するのではないでしょうか。
他責・他罰に未来はないと私は考えています。
なぜかというと、他人をどうすればいい、こうすればいい、ではないから。すべて自分だからです。