一水四見
一水四見(いっすいしけん)とは、仏教用語で唯識のものの見方で、認識の主体が変われば認識の対象も変化することの例え、だそうです。
人間にとっての河(=水)は
天人にとっては歩くことができる水晶の床
魚にとっては己の住みか
餓鬼にとっては炎の燃え上がる膿の流れ
出典:Wikipedia
去年この言葉を初めて知った時は、認識の主体は、人間、天人、、、のようにそれぞれ異なると思っていたのですが、今日、改めて考えると、私自身(一人の人間)の変化として捉える事もできるな、と思いました。つまり私は人間でもありますが、天人でも、魚でも、餓鬼でもある。そうありうる、ということです。
河を "見る者" は誰か? 認識の主体となっているのは誰か?
一体、誰が「河」を「水晶の床」「住みか」「膿みの流れ」と受け止めているのか?
その時々で違いませんか?そこに人間としての豊かさがあるように思うのです。