やさしさという母性を育てる

やさしさという母性を育てる

2024年06月30日 09:07

やさしさという母性を持って自分のパターンに語りかけをするときに、パターンが「ふにっ(涙目)」となったりして、「ああ、こういう感じかなー??」と少しずつ、少しずつやっていますが、自分はやさしさという母性に慣れていないということをつくづく思いました。これは、以前、「女性性を嫌うパターン」をケアしていたときにも思ったことでした。

やさしさをどう意味づけるか、にもよりますが、そういう人が周りにいなかったんです(といきなり人のせいにする)。

「やさしさ」とは、受容、赦し、理解、包み込むような感じとかいわゆる「女性性」や「母性」にも通ずる資質があると思うんですが、「いいんだよ、いいんだよ」みたいな甘やかしやケジメのなさ、過保護で相手の自立・生きる力をうばう、依存的などもマイナスの意味づけで、あります。

それで私自身の感覚なのですが、私は、人からやさしくされていたら、ここまでこられなかったと思います。というのも「いいんだよ、いいんだよ」みたいなことは私の身には起こらなかったんです。何でも厳しく処されてきました。受容や赦しや理解、包み込まれるような感じも、そうです。そういう大人に接したことがなかった。それが自分のパターンが作っている現実(あるいは「私」のセッティング)だったわけです。

理解してもらおう、赦してもらおう、などと甘えたことを考えることはできなかった。なぜならそれを考えてしまったら、力が出せなくなるからです。本当に大変だったとき、「そこをどうにか〜〜〜」「たすけてください〜〜〜」と “甘えたこと” を口にしたこともありました。が、それが受け入れられることはありませんでした。そのときに、いったん甘え心を抱いて、そこから自力で奮起して、力を発揮することのしんどさを体験しました。

それであれば最初からやさしさを求めない、甘えないほうがいい。最初から自分が引き取り、自分がやるつもりでいたほうがいい。そのほうが余計な労力がかからないですから。そうやって他人からやさしくされることや、「やさしさ」というものから自らを縁遠くして生きてきたんだと思います。

このことからわかるのは、自分自身がしている「やさしさ=人の力を奪うもの」という意味づけ。

奇しくも、今、肩が痛かったりするので、ちょっとしたサポート、ちょっと手を貸していただくとか、そういう行為に心が和らいだり、ほんとに助かったりする「やさしさ」のエッセンスを感じ、このメロディやさしいわ〜♪という心が安らぐクラシック音楽を聴いたり、あとは、ご先祖さまにお頼み申し上げ、いろいろフル動員で「やさしさ」という母性を自分の中で育てていこうとしています。

そうした細かなエッセンスをかき集め、「そうだよね・・・」と語りかける。

少しずつ、少しずつ、です。