もう、いつもいつもデキる自分でなくていい。
デキる・やれる(実力がある)というのは、「自分はデキる人間である(自分は実力者である)」というようにパターン的アイデンティティー=一種の決めつけにつながります。
デキる・やれるって、一般的に良いことです。ただ、デキ続けると「毒」になる。デキない・やれない人の気持ちがわからないし、そういう人をジャッジしたり、軽蔑するパターンや無理解、差別を生む。だからそれを続け難い体験をしたことで私自身、学びました。これはデキてしまってきた、やれてしまってきた私にとって必要な体験でした。デキる・やれる「一辺倒」だと、正に文字通り、そちら側に倒れ、イビツになってしまいます。
そして最近気がついた「何かをやることで自分を成り立たせてきたパターン」と向き合うなかで、ただ行動しないのではなく、「私」は何を選んで行動をしないのかというところで浮かんだのが、「もう、いつもいつもデキる自分でなくていい」という白パターンです。これは、楽!!ふぅ、、、という安堵感があります。
「そうでなくても自分は成り立つのだ」と魂として体験したいんです。デキる自分・やる自分というパターン的アイデンティティからの卒業。
3月は病気によって「デキない状況」に強制的に追い込まれ、胸のあたりにピ〜ンと張られていた糸がプッツリ切れましたが、そのことに「私」による意識的な選択が追いついた感じです。
社会人としてデキないとマズイことはしっかりやるにしても、例えば、自分の日記だったら日々の更新からは離れて、書くことがない時は書かない、そういうことを自分に許してもいいわけです。むしろ、この機会に許していこう、と思います。
「やり続ける!」とか「できない・やらないという言葉は辞書にない!」というようなスタンス。そこはもう、十分にやってきたでしょう?と「私」が自分に問いかけます。あなたがデキるのはもうわかった。そこはもう十分にやってきたよね。そういう中でもやり続けていたのは単なる惰性であり、思考的取り組みであり、パターンだったんだよね、という気づき。
もう、デキる自分でなくていい。そういうところで自分を成り立たせようとしなくていい。