お引越し

 

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み始めました。

初めて(多分)ドストエフスキーを読むのですが、冒頭からこの作家のユーモアに親近感をおぼえました。登場人物が多く、やや複雑ですが、かまわず読み進めていくと、「長老」の話が出てきて、「自分に嘘をついていないか?」について考えるキッカケになりました。

ちょっと長いのですが、引用します。長老とフョードルとの会話です。
『カラマーゾフの兄弟 1』(中公文庫 P102, 7行目〜)

ところで、大事なのは、 何より大事なのはーーー嘘をつかぬことですぞ

肝心なのは、自分自身に嘘をつかぬことですじゃ。自分自身に嘘をつき、己の嘘に従うものは 、ついには自分のうちにも、周囲にも、真実というものを見分けられなくなり、そうなれば、自分に対しても他人に対しても尊敬を抱けなくなる。ところで、誰をも尊敬できなくなれば、 愛するということもなくなってしまい、愛がないのに自分を楽しませ、気をまぎらそうために、情欲やいかがわしい快楽に溺れて、ついにはけだものにも等しい所業に走るようになるが、元はと言えば、それもこれも、他人に対して、また自分に対して、絶えず嘘をつくことから出ておりますのじゃ。自分に対して嘘をつくものは、また誰よりも腹を立てやすい。腹を立てるのは、どうかすると、誠に気持ちの良いことでな、違いますかな?何せ当人自身、誰が自分を侮辱したわけでもないことをよく承知しておる、大体その侮辱というのが、自分で勝手にこしらえあげた代物で、あることないことつき混ぜて彩りを添え、 派手な 一幕に仕立て上げようと自分で 誇張し、片言隻句に絡んで、豆粒を山のように見せたものなのだが、そのことを自分でちゃんと承知しながら、そのくせ自分から先に腹を立てる、気分が良くなって、たいそうな満足感を味わえるまで腹を立てる、そしてそのあげく 本物の敵意を抱くまでになりますのじゃ・・・(ひざまづいているフョードルに)さあ、立ちなされ、ぜひとも席についてくだされ、それもやはり嘘の仕草でしかありませんぞ

それに対してフョードルの言葉が「さようでございますとも、まったくもって腹を立てるのが気持ちいいんでございます。・・・それにしても私は、それこそ一生涯、毎日毎時、嘘をつき通しでまいりました・・・」と続きます。

パターンとそれのなせるわざが、自他を尊敬できなくなる、愛せなくなる、自分で勝手にこしらえたパターンで誇張して他を糾弾し、満足感を得るなど、詳細に描かれています。ドストエフスキーは人間の心について知っていたんですね。

自分自身についている嘘で最も大きいのは、自分にはできない、自分には無理、自分はダメだ、というパターンではないでしょうか。「私」はそうは思っていないけど、です。「私」にとって嘘。どういうわけかそういうパターンのほうを信じちゃっている。

周りから「あなたにできるわけないでしょ」「そんなことでどうするの?どうやって生きていくの?」「あなたが有名人ならともかく、誰もあなたのことなんか知らないでしょう。そんなあなたの言葉など誰も信じないですよ」などと繰り返し言われて、なぜかそういう他人の言葉に従い、気がついたら「自分にはできない。自分には無理。」などと自分自身に嘘をつき、その嘘を信じていた。

そういう周りの人たちもまた、自分に嘘をついて生きているため、全てがそこに帰結してしまうんだろうなぁ、とも思います。この嘘の連鎖を終わらせるには、新たな領域への引っ越し以外にないでしょう。自分自身がそこの領域から抜けること。

自分はどうありたいのか。「新領域」へお引越しです。