雨が降っていたら傘をさすかどうか
今朝の東京は雷がゴロゴロ〜〜〜〜〜と轟いておりました。
明るい空に走る稲妻が真っ白に見えたのは発見でした。真っ白なギザギザの線が空を引き裂きます。すると、鳩があわててどこかへ飛んでいきます。
私たちも日々、その鳩のようにあわてないまでも、目の前のさまざまなことに対処して、生きています。
雨が降っていたら傘をさすように、出された食事は残さずきれいに食べる(親からそう躾けられました)、嘘をつかない(嘘つきは泥棒のはじまりと教わりました)、人の悪口は言わない(今回のグループでの学びでも話題になりました)などと学校でも家でも教わって、「そういうものだ」と思って生きてきています。こどもながらに理不尽だなーと思って口答えすれば「口答えをしない!」と言われて終わり。
そういった当たり前のことが世の中を回していて、誰も1ミリも疑問を抱かない。そこから外れる人がいれば責められたり、罰せられたり、呆れられたりして、それでやっぱりその枠の中での生活というのが維持されていきます。
でも、考えてみたら、それってぜんぶ自分の外から来ているもので、自分(のパターン)で自分を決めつけない生き方をしていくのであればそれらはいったん無意識レベルから意識レベルに上げて、自由に選んでよいもののハズ。
雨のときに傘をささなくたっていいし、食事を残しても、嘘をついても、悪口を言ってもいい。そこにどう意味付けるのかは本来自由で自分次第。それでいいんだ、と。〜してはいけない、〜するべき、〜するものという社会的なパターンをいったん認識した上で、さて、自分はどうするのか、自分はどのように意味づけ、何を選択をするのか、自分が選んで自分が決める。その行為自体に私は自由と希望と、何か湧き上がってくるものを感じます。
あらゆるものごとを良い・悪いから解放し、決めつけない。どれも等しく一つの選択肢。そんなことを思う木曜のお昼です。