良い悪いを超えて
わたしが幼い頃、テレビでは「一日一善!」という掛け声で締めくくられる映像が流れていて、当時の自分は、一日に1回は何か良いことをしようと思ってました。
これです↓ 懐かし〜! 曜日ごとにバージョンがあったんですねぇ。
https://www.youtube.com/watch?v=xViRnw9rELI
良い悪いの区別がそうやってついていったように思います。それは、この映像に出てくるような、良いことをする、良いひとである、そうでないことはありえない(存在しない)。そういう世界です。こうやって社会通念ってつくられて、浸透していくのか・・・?
ここには「良い人」は存在していていい。そうでない人は存在しない(映像にも流れてこない)、すなわち存在できないという分断と、人を良い・悪いで判断する、ジャッジの視点を自分の中に作り出したと思います。だから、あの映像に出てくるようなことをしない人、つまり “悪い人” を責め立てて正そうとするようになります。そうしないと、良いことをしている自分たちが成立できないからです。存在できない不安を無意識のうちに感じるのだと思います。
社会通念では、良い/悪い、善/悪、正しい/間違っている、地位が上/下、能力が高い/低い、価値の有/無、優/劣、力が強い/弱い、先/後、、、全て左側に書かれているものが存在価値有り、右が存在価値無しとされています。
これは、一般社会においては正しい、「○(まる)」とされている基準、ジャッジメントです。ここに賞罰が持ち込まれ、例えば、悪い子は処罰の対象になり、良い子はご褒美(報酬)が与えられる。つまり良い人は愛される、大切にされる、阻害されずに優遇される。悪い人は愛されない、大切にされない、むしろ虐げられて冷遇される、というようになっていきます。これが大人になるまでずっと続いている。
私がここ最近、気がついたのは、こういった社会通念的なパターンです。一般的にはそれは常識とされ、その暗黙のルールのもと全員が同じゲームに参加していて、特に考えもせず「そういうものでしょ」と生きている。
上述した、良い、善、正しい、上、高い、優、強、先は賞賛されるのが当然。そうした社会通念に支配されて生きてきた気がします。言ってしまえばこれらは他人との比較、他人からの評価です。もうそういったところで生きなくてもいいのかも。いつまでも “一般社会” に居続けなくてもいいのかも。
そこにどっぷり生きてきたこれまでは、まったくそのからくりが見えてなかったけど、そういう分断的な生き方って「本当の私」が望んでる生き方ではない。
一般的に見えている社会の他にも世界はあり、そうした善悪を超えたところにも世界はあり、どんな人とも通じている世界があり、誰もがそこで生きていていいし、ダメな人なんて一人もいない。