ホントの「情弱」はだれ?
最近、「情弱」ということばを目にします。
情弱とは、インターネットなどの情報に容易にアクセスできない人やそうした情報をうまく使いこなせない人のことを指します。情報化社会において、入手する情報の量や質の良し悪しによって起きる「格差」が問題視されるのだと思います。
より多く!より速く!より高く!を価値観に持つ社会ではそういった「情弱」な人は馬鹿にされる傾向があります。
このことに関して、私、最近よく思うのは、情報にエビデンス・根拠を持たせる、そこをあまりにも拠り所にしすぎて、不明確・不明瞭・根拠のないもの・数字で示せないものを論外にしてしまうことの「危うさ」です。
何かでインターネットが動かなくなりました〜ってなったらどうするのかな、とも思います。VUCAの到来で過去のデータが根拠を失っているのは明らかなのに。拠り所を失ってパニックが起こるのではないでしょうか?
本当の「情弱」はだれだろう?
それでも情報を獲りに行き、情報を支配した気になって、エビデンスを示して、その正しさや価値、存在意義を証明して自らを成り立たせようとします。また、受け手側もそれを信じて納得してしまう。論理思考の罠だと思うんですが、それこそ「宗教ですか?」と思ってしまうような、情報信仰は蔓延していて、「エビデンスさえあればそれをあなたは信じるのですね?」と危惧します。
これって、これまで私自身もそういうふうにやってきたから、よ〜くわかります。しかも、エビデンスを出すときは、「正しい」ものを出さなければいけません。お金を出してくれている人たちにとって。我田引水の役割です。
そういう社会でどっぷりと働いている身ではありますが、私個人は、外に求めず、外にあるものを拠り所にせず、内なる感覚、「本当の私」を羅針盤にして素直に生きていきます。自分の人生を生きるのに根拠はありません。ただただ、自分がどうありたいのか、どういう生き方をしたいのか、のみです。