『泉に聴く』
タイトル『泉に聴く』に魅かれ、全編文字で描いたスケッチのような東山魁夷のエッセイを手に取りました。
なぜこのタイトルに魅かれたのかというと、私には、源を探る、源への好奇心があって、私にとって自己探求はまるで「泉への探検」のようだからです。なので、このタイトルを目にしたときは、少し驚きました。
冒頭「序にかえて」の終わりのほうに、東山魁夷が自身と向き合っている様子が書かれています。
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今迄、経て来た道を振り返っても、私は曠野に道を見失う時が多かった。そんな時、心の泉の音に耳を澄ますと、それが道しるべになった場合が少なくない。
泉はいつも、
「おまえは、人にも、おまえ自身にも誠実であったか」と、問いかけてくる。私は答に窮し、心に痛みを感じ、だまって頭を下げる。
私にとって絵を描くということは、誠実に生きたいと願う心の祈りであろう。謙虚であれ。素朴であれ。独善と偏執を棄てよ、と泉はいう。
自己を無にして、はじめて、真実は見えると、私は泉から教わった。
自己を無にすることは困難であり、不可能とさえ私には思われるが、美はそこにのみ在ると、泉は低いが、はっきりした声で私に語る。
東山魁夷『泉に聴く』 (P.13-14)
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いかがでしょうか・・・
私は、この文の一つひとつに、勝手ながら、自分を重ねてしまいます。
誠実さは自分の行動指針のようなところがあります。私にとって自己探求とワークをすることは「ちゃんと生きたい」と願う祈りです。謙虚さ、素朴さ、素直さ、は私が心がけなければならないことです。独善と偏執の象徴のような黒パターンは、棄てる訳ではありませんが、そこを愛し、超えていこうとしています。自己を無にして、、、は、まだ体験していませんが「きっとそうなんだろうなぁ」と思っています・・・
こうしてみると東山魁夷の作品のあの独特な静謐は、泉に耳を澄ましている、その静けさのように思えてきます。あらためて彼の絵が見たくなりました。