何者でもない自由

何者でもない自由

2019年12月15日 06:55

このことをうまく書けるだろうか・・・と思いながら書いてみています・・・
脱同一化(disidentification)ということに興味を抱き始めてから、数ヶ月が経ちます。
disidentificationという言葉は、自然語として言葉は存在するものの、自分自身で考えついたものでした。identificationという言葉があるのだから、dis-という接頭語を付けたら脱同一化になるな・・と。( cover / discover のように)
今、関連のコンテンツ・情報があるのは知っているし、アジャシャンティがそのことを話している動画があるのも知っています。ですが、私がこの言葉に興味を抱き始めたきっかけとしてそれらがあったわけではなく、後から、それらがあることを知りました。私は、今はまだそれらのコンテンツを見ずにいます。なぜかというと、まずはこの「脱同一化」ということを自分で導き出したいからです。
さ・・・て・・・・
「他人に求めることから離れる。」「他人に自分を満たしてもらわなくていい。」といった新たなパターンを選んでいくと、他人から自分がうーんと離れます。
そして、アイデンティティというのは「自分は〜です。」と示すことに対し、相手が「そうですね。あなたは〜ですね。」と肯定することで生まれます。アイデンティティは自分と他人との間に存在し、良かれ悪しかれ肯定的に共有しているものなのです。
そこで自分と他人が離れると(「他人に求めることから離れる。」「他人に自分を満たしてもらわなくていい。」といった新たなパターンを選ぶと)、そこにアイデンティティが介在しなくなります。自らのアイデンティティを示す必要がなくなるからです。
自分の扱いを他人に求めているうちは「こういう自分」というアイデンティティを示していることになります。他人に自分を扱ってもらうためにはなんらかの存在としてそこにいなければならないからです。
脱同一化というのは、それが、なくなるということなのだと思います。そして、それは、心地良いものです。
だから自分にまつわるあらゆるアイデンティティを手放したくなるし、自分自身の脱同一化を図りたいと思うのです。アイデンティティ・フリーとは自由です。他人からの自由、自らのアイデンティティからの自由です。何者でもない自由です。
▼ 魂の学びは普遍的です。普遍の学びは、実践を通して自分自身の学びとすることにその面白さがあります。
 ぜひ、内なる眼差しを持って、未だ見ぬ世界を探求しましょう。
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