無理解
パターンに気付いて、「そうだよね・・・」と「語りかけのワーク」をやっていくと、それまでパターンは誰にも理解されることのないまま、そこにポツンと一人で居続け、どうしようもなくてパターン一人で頑張って何十年も生きてきたことを実感します。また、パターンが「やっとわかってもらえた」と安心しているのも伝わってきます。
そして、「本当の私」が、「あなた一人に頑張らせてしまって、背負わせてしまって本当にごめんなさい」というように、心底、申し訳ない気持ちになったりもします。「本当の私」がパターンの思いを理解しているのだと思います。それはパターンを赦すということであり、パターンを愛するということでもあり、そうしてそれは他人への理解に繋がると思います。
「本当の私」とパターンとの間で会得した理解を、「もしかしたら、こうなのかもしれない」と他人の思いを想像し、理解を試みます。その想像は、ぴったりその通りではないかもしれないけど、推察することはできるし、「なんか・・ちょっとわかるな・・もしかしたら・・こうだったのかもしれないな・・」と思う時、自分の心の中には穏やかさがあり、相手を赦すことにもつながっているように思います。
パターンが引っかかっている時には、パターンは自分の思うようにならない相手を盛んに責め立てますが、そのパターンを「本当の私」が引き取り、理解した先は、自分のパターンが暴れる発端となった(自分のパターンに気づかせてくれた)相手への理解につながっていると思います。 もし、理解がなかったら、それは不幸なことだと思うので、「無理解」を「不幸の三原則」の〔その2〕とします。明日は〔その3〕について考えます!
▼ 普遍的な魂の学びは、実践を通して自分自身の学びとすることにその面白さがあります。
ぜひ、内なる眼差しを持って、内なる世界を探求しましょう。
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