神は愛されたことがない。
『置かれた場所で咲きなさい』の著者・渡辺和子さんがこのように話されていました。
私は以前、自分は愛された経験がないから自分のことも人のことも愛せません、と思っていたことがあって、それは未熟な自分が思うような愛を与えられなかっただけなのですが、この「神は愛されたことがない。」は、そこへの理解を深めました。そーかーーーと思いました。
たとえ「愛されたことがなかった」としても、自分の中にすでに備わっているという意味において、自分のことも他人のことも愛せる・・・と胸のあたりで受け止めました。
奇しくも、わかってほしい、理解してほしいというパターンと向き合う中で、「聖フランシスコの祈り」も思い出すところです。
わかってくれー!理解してくれー!じゃなくて、、、わかる、理解する自分である、ということ。
* 聖フランシスコの平和の祈り *
主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、
争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、
絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、
悲しみあるところに喜びを。
ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、
愛されるよりも愛する者に。
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
許すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。