学びへの執着
昨日の日記に書いた「自分への執着」に関連して面白いことがありました。
「ブッダbot」というAIを使った対話システムを実験的に使わせていただいたんです。ここで出てきたブッダからの答えが秀逸。
・自分の経験や考えに強くこだわって、その有益さを強く主張していると、自分以外のものをすべて劣っていると見下してしまうことになる
・他の人の学びや考えをすべて劣っていると見下すと、成長や発展はなくなる
・自分の考えこそ最高であり、それ以外はすべて劣っていると考えている限り、論争は絶えない
・自分のものという考えにこだわってはならない
・あらゆる心の汚れを取り除いたあとは、学んだこと、考えたことに執着することはない
これらは仏教経典『スッタニパータ』から抽出しているのだそうですが、「そうか!これが、一人でも多くの人に学びを伝えたがっている今の自分が目指す先なのか!」と思いました。
自分の考えこそが最高だという認識はなかったけれど、その学びしか体験として理解しておらず、確かにそこに強くこだわり(コミットして)それだけをやってきて、また実際に自分にとっては非常に有益でもあるから、「この学びは最高だ」とは思っていました。だから、やらない人に対して「なんでやらないんだろう?」と思うんです。
でもそれは、自分がこだわっていただけだった。この学びが面白く、好きであるがゆえに執着していただけだった。
そして、いったい自分は他人に何が不足していると思っているのか?なぜそのままの他人を受け入れず、自分の考えや学びをそこに付加しようとしているのか?
ブッダの言うように、私のパターン(「自分と向き合うべき」、「自分を見ている私は正しい」など)は、確かに自分の学び・考えにこだわり、有益=正しいと思い、他人を見下します。
今、このタイミングでここに気がついてよかった!