終戦の日。自分は人を愛せているのか。
人を愛せる自分になるためには、そこへ向けて、ひとつひとつ積み上げて〜という話ではないということは学んでいるので、ただ、「人を愛せる自分であれたらどんなにいいだろう」という魂の望みを時々、胸に広げて味わっています。
そういう望みがありながら、相手の言動にひっかかってイラッとすれば、そこはパターンのケアをしたり、白黒ワークをしたり、相手の言動そのものの意味づけを考えたりしています。
そこはやはり「望み」で、つまり、自分はまだまだ人を愛せていないと考えているのです。また、愛するとは、「相手をそのまま受け入れること」、「相手にイラッとしないこと」といった意味づけをしているので、イラッとすると、ああ、この人を愛することができるようになるまでの道のりは遠そうだ・・・と思ったりします。
ところが、ここで浮かんでいる考えがあります。
パターンのケアやワークなどをやっていること自体、「愛」なのではないか。つまり、自分は既に人を愛せているのではないか。
「イラッとすること」自体は、愛ではないから、自分は愛せてない、まだまだだ、、、と思うんだけど、実はすでに、私は人を愛せている。
イラッとすることと愛とはまったく別の物。「イラッ」は単に「イラッ」。そこに「愛せていないこと」という意味づけは不要。愛へ向かう歩みのきっかけです。
今日は終戦の日、戦争が終わった日。終戦から78年経つのですね。それでこの現状。どうでしょう。どうなんでしょう。。。
今日もワークをやって人を愛せる自分であります。