大変な思い、について
芹香斗亜さんの公演で、繰り返されるカーテンコールに、「もう、解放してあげてもいいんじゃないの?早く休ませてあげればいいのに・・・」という気持ちが、何度か湧き上がってきました。
このことで、自分の思いグセ(パターン)に気づきました。
大変な思い、苦しい思いをしているのであれば、それはやめるべき、やめさせたい、やらなくていい、こういったパターンです。
大変な思いをしている人に「もういいよ、やめようよ。」とか、「他にいくらでも選択肢はある」とか、言っていました。
大変な思いとか苦労をしている人がいると、何とかならないものかと考えるし、自分にできることは限られていて、自分の無力感を感じたりします。何でそこまでして、とも思うし。ただただ労うことしかできなかったり、はぁ、、まったくねぇ、、、と一緒にため息をつくしかなかったり、、、がほとんですが。
自分自身は、大変な思いをするのは嫌だし、また、苦労してまでやりたいものがないのだとも思います。あるいは、周りから見たら苦労かもしれないけど、自分ではそうは思っていないとか。
でもね、苦労をしてでもそれをやりたい人はいるし、大変な思い→やめる、という短絡的なことではないですね。大変な思いとか苦労も、「自分にとってのそれ」であって、その中身は人によってさまざまです。茨の道だと分かっていてそっちをわざわざ選ぶ人もいるし、ここを進まねばならないと本能的にそこへ向かう人だっています。
そもそも、人の成長にとって「大変な思い」(ネガティブ、不快なこと、不満)は、進化につながる可能性を秘めている、欠かせない材料です。そこは自分自身でも経験していることです。
芹香さんの記事に、私は学ぶことが好き、宝塚でもたくさんの学びを得た、これからも自分が学べることを探していきたい、とあります。
学ぶためにはどんなに大変な思いも、苦労も、すべてを、学びに変えていく人なのかもしれない。最後まで笑顔で応える、その裏には18年分の「学び」と本当に舞台が好きという強い思いがあるのかもしれない、と想像します。