ボンジュール、呆然
苦しいことや不快なことって、人を反省させたり、パターンに気づかせたり、改めて別の方向へ向かわせたり、さまざまな恩寵をもたらすものだと思うのですが、逆に、何かが満たされ続けていたり、取り立てて苦しい思いをすることなく生きてきた場合、そこにある大きなパターン(こういうものだ、みたいに当たり前に思うこと)をまるまる信じてスイスイと生きてしまう、ということに直面しています。
わたしは、本当に恵まれた環境で育ってきて、ふつうの人がやってきている苦労みたいなものを体験したことがなかったり、すべて誰か(それは両親であったり、制度や環境であったり)からの用意(お膳立て、特別扱い)があって、ヒョイヒョイと生きてこられたところがあります。
それは、学生時代のOB訪問で「わたしは入社したら海外勤務がしたいです」といきなり言ったり、あるいは、魂の道場でも「カウンセラーになりたいんです(3ヶ月で)」と言ってまうところに現れています。今思えば、いやいや、そこにいたるまでに色々やるべきことがあるでしょう?というところを端折った生き方をしてきてしまったんだと思う。
そしてそうなるまでの間の自分は、それに「ふさわしいから」というところが多々あって、何かズルをしてそうなったわけではないし、意図的に端折ったのでもなくて、「適切にそうであった」というところがまた・・・そーであったかーーーー・・・あんぐり・・・となっています。
これも魂のセッティングだろう。一通りこれを体験した上で、何か気がつく自分なのだ。
感覚的には、自分が枠組みみたいなものに乗っかっていて、それが社会の仕組みというレールを滑っていっているようなものかと思います。
今まで自分が向き合ってきたことってぜんぶ、このレール上のサビや不具合だったんだ・・・・とちょっとしたショックを受けています。すべては自分が無意識に乗っかってきたレールに気づかせるためだったのかも。。。
以前フランスで手に入れたタウンペーパーに目をやると “L’arbre qui cahce la forêt.” (直訳は「木が森を隠す」=木を見て森を見ず)とありました。・・・そうか・・・このことだったんだな・・・・・。
サビや不具合は自分にとって不快なものだから、パターンにも気がつくし、そこのケアをずっとしてきましたが、そもそも自分が乗っているレール(これもパターン)が見えていなかったし、そのレールが何たるかもわかっていなかった。しかしどういうわけか自分はそこに適切に合っていたし、そこに合わせる形でずっと生きてきた。
・・・と、いうことがわかって呆然となっているところです。呆然よ、こんにちは。