価値ある存在
そうか、、、、と、思ったことがあります。
自分は価値ある存在だ、、そのようにどこかで思った。そこがはじまりだ、、、本当は価値ってないのに、、、と思ったんです。
「価値ある存在だ」と近いものとして、自分は特別だ、一番だ、一目置かれる存在だ、大物だ、勝ち組だ、上だ、などがあります。
ところが、、、世に出てみれば、誰からも見向きもされない。というより、誰もが「自分は一目置かれる存在だ」と思っているので、自分は他人には目もくれず、他人から見向きされることが当然だと思っている、、、のではないか、、、、、。
「自分のことを “存在価値” があるものとして扱ってほしい」とパターンは他人に望みます。近いものとしては、大切にしてほしい、認めてほしい、理解してほしい、わかってほしい、、、など。つまり、パターンとしては自分には存在価値があると思っているのです。
ところで、生まれてきたばかりの赤ちゃんって、価値の有無ではなく、愛の塊です。この子には価値があると思って赤ちゃんのところに吸い寄せられる人っていないと思うんです。
赤ちゃんの持っている爆発せんばかりの生命力、無限の未来に引き寄せられる、それは愛の塊です。
ひとは、子供が成長するにつれて大人の目(社会の目)により、価値化されていくのではないか。
たとえば、目鼻立ちがはっきりしていれば将来は映画スターね!とか、男の子で頭がよければ将来は外交官ね!とか、スポーツが得意であれば将来はオリンピック選手ね!いまであれば、未来の大谷ね!とか、、、そういう大人たちのことばの一つ一つに「価値」(=お金稼ぎ、生きる術)が含まれていて、それを浴びて育つ子供は、「自分には存在価値がある」とばかりに、周りから価値づけられ、そのようにパターンを刷り込む。ここでは「できることには価値がある(できないとダメ、無価値)」というパターンも刷り込まれます。
〜ができると誉められる。親の言う通りにすると誉められる。といった条件付けの愛も同様の作用があると思います。だからあなたは存在していい、だからあなたは存在に値する、というものだからです。
私たちはこうして価値化された社会に同化していったのではないか。
そうだとすると、自分には存在価値があると理解していてもうなずけるし、「自分は一目置かれる存在だ」と思っていてもわかります。
でも、、、、赤ちゃんがそうであるように、ひとに価値って、ない。