そうだったのか・・・!!
(昨日の日記の続き)
自分の存在自体を認めてもらいたがっているパターンは、他人のパイプの中にズカズカと上がり込んで、お邪魔して、あれこれやっているんだなーーーーーーーーー、ということがすごくよくわかりました。
以前私は、「先生」とか「上司」とかから認められたい、というパターンと向き合い、ずいぶんケアをしてきました。当時気づいたこととしては、そういう人たちに(相手が男性であっても)「母親」を求めているということでした。
なので今回、自分でもすごく驚いたのは、見知らぬ人にまで、無意識のうちに「自分」という存在をアピールしていたということです。そうだったのか・・・!!と大変驚きました。
考えてみると、私はこれを本当によくやっているんです、ふだんから。
後から来る人のために扉を押さえるのは日常茶飯事だし、店頭などではよく「いらっしゃいませ〜」などと冗談を言って扉を開けたりしています。
フランスから帰ってきた直後は、日本人が扉を押さえないことにすごく驚きました。引き戸の文化だから、ドアというものを知らないのかな?と思ってました。
また、こういうこともありました。実は今、左肩が痛くて、上着を思うように着られないんです。そういう時、(日本は特にそうなんですがー)誰も助けてくれない。このことを寂しく感じているパターンにも気がつきました。
ドアを押さえる、ドアを開ける、上着を着せる、ちょっと荷物を持つ、そこにあるものを渡す、ほんのちょっと手を添えるだけのこと。大したことではない。私はそうしたことを他人にやりますが、自分(のパターン)もまた、そうされることを望んでいるのでした。
街で目の不自由な人やお年寄りがいれば、自分が余裕のある時には一声かけて、必要であれば助けて差しあげることは普通にします。ここに関しては、無意識ではないんです。そういう人たちに「自分を認めて」と求めるのはちょっと違うとパターンは思っているのかもしれないですね。パターンはそういう人たちのことは対象にしないんですね。
観察してみると色々出てきます。
でもこういうことって、社会の潤滑油だとも思うので、あまり神経質になりたくないです。奇しくも、今年の目標の一つは「さじ加減」。パターンは巧妙だからそういう機会をうかがっては、存在をアピールして、自分の寂しさをかき消してきたのカモしれないな〜と自分の中を観察しつつ、いい塩梅で、世間に手を添えていかれたらいいなって思います。