本物を求める心とは

本物を求める心とは

2017年05月30日 16:28


自分の選択に自信がなかった頃の私は、やたら「本物」を求めていました。

今思うと、あれはいったい何だったんだろうか?という感じなのですが、何もかも、すべてにおいて、自分で選ぶことができなかった、ということだろうと思います。自分の選択に責任も持てないし、失敗を恐れてもいたのかもしれないですね。自信のなさ、不安、そういったもので心が支配されていたのだと思います。それらもしかし、今でこそわかりますが、パターンなんですね。

世の中の大半の人たちと同様に、私自身も思考・知識・情報一辺倒の、「論理的であってなんぼ」な世界にいました。自分の感情や感覚なんて二の次、そんなものは存在しない。職場では「君の意見なんて聞いてない。そんなものは一切関係ない。君の考えなんか誰も信じない。(有名な本を指差しながら)こういう本に書かれていることなら信じられるケド。」と言われていました。なぜそう言えるのかを客観的に、データに基づいて立証することが求められていました。主観的なのはダメ。論理的な客観性によって導き出された考えはヨシとされていました。

結局、私もそうでした。すべてにおいて客観的に立証された本物であれば信じられる。どれくらいの実績があるのか、どれくらい売れたのか、評判はどうなのか、、、だから、有名な人や自分が(正しくは自分のパターンが)信頼する人が「これは、本物である」と太鼓判を押すものは信じられました。そうじゃないものは見向きもしません。ましてや自分の中に、そういったことを見極めるセンサー(直感力)がそなわっているなどということは、信じられなかったのです。それまでのさまざまな体験を通して「自分なんて、そんな、心もとない。」(自分は信じられない)と私のパターンは学んでいったわけですね。

そのようなお墨付きありきの日々を過ごしましたが、自分の感情や感覚を感じる、認識する、そしてそれを信じることを繰り返すことによって、本物はどこだ?と探すことは自然になくなっていました。そのときに手を取って、見てみて、会ってみて、良い感じがするかどうか、それに尽きます。あ、良い感じがする!なぁんか変な感じがする・・・、だいぶ変な感じがする・・・、色々あると思いますが、その自分の感覚を信じる。それが自分に合うかどうかを感じる。そのときの自分に合うのが、そのときの自分にとっての本物ということ。今はそこに落ち着いています。