日常
自分が思い込んでいる(あるいは慣れ親しんでいる)日常があって、同時に、それとは異なる日常が実は展開しているということに最近、ハッとします。
電車に乗って、いわゆるビジネス街に通勤するようになって、目にする光景で特にそれを感じます。オフィスビルがあってたくさんの窓が壁面にあって、その一枚の窓ガラスの向こうには何十人という人の、一人ひとりの日常があって、それは常にそこにあったし、そこにあるわけです。ものすごく当たり前なことなのですが。
朝の7時台からカフェが満員だったり、皇居で働いていると思われる人がお堀の橋を渡って皇居に入っていったり・・・そういう光景って、これまでわたしは想像することもなかったのです。そういう人々の日常を。でも、確実にそこにある。
パターンで生きることに慣れていると、世の中って自分中心で回っているような錯覚を起こします。(パターンとしては)自分が裁判官、自分が法律みたいなことってよくあります。新たに感じたこの当たり前な出来事への眼差しは、そういう感覚をずーーーーっと自分は抱き続けてきたということへの気づき、自分が実はものすごく狭い世界に生きているのだということへの気づき・・・かな?って思います。あるいは、パターンはさておき、人は自分を取り巻く日常への認識の中でしか生きられないものなのかもしれなくて、そこには想像力や理解力が必要になってくる・・・とも考えます。
オフィスビルに関して言えば、先日、大企業にお邪魔する機会があり、まるでSF映画のセットのようなビルに驚きました。エントランスホールの天井もものすごく高くて、フロアごとの天井も高い。人間の存在は相対的に小さく、人々はICカードで管理され、存在=データ。こういう中でも多くの人が働いていて、そのどれもが日常。
それをこちらがジャッジするものでもないし、それはただそうであるだけなのだけれども、逆に彼らは私の日常を知らないし、想像することもないと思います。でも、確実にここにある。
▼ 普遍的な魂の学びは、実践を通して自分自身の学びとすることにその面白さがあります。
ぜひ、内なる眼差しを持って自らの世界を探求しましょう。
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