パターンのはじまり
自分のパターンのことを思うと、ほんとによくここまで頑張ってきてくれた、「今まであなた一人だけに背負わせてしまってごめんなさい」(という語りかけのことば)と心の底から思います。
パターンは、エゴとか信念、価値観、常識などと意味付けることができますが、パターンというのは当初の自分が生きるための術、唯一のサバイバルツールだったのではないでしょうか。
想像するのは、こういう場面です。
大海原に、身一つで海の中で立ち泳ぎをしながらほんの少しだけ顔をのぞかせて、呼吸もやっとできるような自分がいます。そこに大きな波がやってきて何度も溺れかかり、「もうダメだ、これで終わりだ、、うぅ、、」と絶望し、あきらめかけます。
そんなところに、低くたち込めた雲の隙間から、一本の命綱が降りてくるのです。
でもここは大海原で、おまけに雨が降っていて風も出てきました。命綱はあっちこっちに揺れながら、荒波にもまれている自分のところにたどりつきます。
私は思い切り腕を伸ばして、綱をつかみます。もう少しのところで手が離れたりしながら、それでも、やっと!
最初は片手で綱を手繰り寄せ、それから両手でしっかりとつかんで、水面から上半身を出し、大きく息をします。それから体に力を入れて、その綱をさらに握り直します。
へろへろになりながらも得られた楽な呼吸、安息。その頃には風雨もおさまり、海はかなり落ち着いた状態になっています。
長くなりましたが、これが、もともとはパターンのはじまりだったのではないでしょうか。
惨めな、悔しい、苦しい、怖い、辛い思いをした体験。そのままでは自分は壊れてしまう。そんなときに浮かぶ一つの考え。環境に翻弄されるなか、唯一、自分自身が決められる自分。「自分はダメだ」でも「自分は上だ」でも「自分は正しい」でも「自分は病弱だ」でもなんでも。
その強い強い「決めつけ」のおかげで大変な時でも生きられた。ギリギリのところで一瞬でも息が吸えた。それがその時の自分にとっての救いになった、のではないでしょうか。
自分がここに至るまでパターンは頑張ってくれた。パターンはその時の自分が生きる術だった。愛すべき、健気なパターンです。