したい格好、したくない格好

したい格好、したくない格好

2020年09月01日 08:52

昨日からいくらかの涼しさが戻ってきました。今朝の東京はとても涼しく、このところの定番(タンクトップにバリ島で以前買った体に巻いてはくロングパンツ)ではなく、ジーンズに白いロングスリーブのシャツを着ています。私にとって最も心地よい服です。
私のパターン「女であることが嫌だ」には、自由に、したい格好をさせてほしい(着たくない服を着させないでほしい)という思いがあります。セーラー服やレオタードを私は着たくない。でも、女だからそれを着ることが決められている。これが嫌なのです。そうやって型にはめられる、典型的な感じを求められる、それが嫌。
セーラー服はまず、似合わない(自分がしたい格好ではない、自分にとって心地よい格好ではない)。あと、着なければいけない・着させられる・着ることが決められている「制服」という概念も嫌だったのかもしれません。それこそ型にはめられ、管理されている感じがものすごくうっとうしくて窮屈で嫌だったのだと思います。
レオタードも似合わないし、気持ちが悪い。高校生の時に体操の授業があり女子は全員レオタードを着なければなりませんでした。体操そのものも苦手だったこともあり、本当に嫌だった。苦痛オンリーの大嫌いな授業でした。鏡に映った自分が、自分じゃないみたいな、自分と合っていないような、、まったくしっくりこない感じでした。※しかし、これはバレエレッスンでまったく払拭されました。今では気持ち悪さはまったくなく、抵抗がまったくありません。これは私自身の、レオタードへの意味づけが変わったことにあります。新たな意味づけは別の機会に書きます。
女らしさとか女とはこういうものだとか、そういうものへの嫌悪感、そこに従わされることの窮屈さ、不愉快さ。女であるがゆえのさだめ(生理・妊娠・出産)、社会通念上の強制や押しつけ、そういったものを「女であることが嫌だ」というパターンは嫌っているように思います。