積み木の記憶
幼かった頃、ひとりで積み木で遊んでいて、高く積み上げたブロックに自分の服か何かが触れて崩れた・・・ということがありました。
それが半分くらい崩れたところで、そこからまた積み上げ直すということを私はしませんでした。そうではなく、崩れかけた残りの積み木を自分の手でガシャンと壊して、散らかす。そんな感覚的な記憶があります。原体験です。
私はそういう子供でした。
自分がやってきたことを自分の手で図らずも壊してしまった。そのことに耐えられないのです。許せない。そうであればいっそのこと全部自分の手で壊す。無きものにしてしまう。
不思議なことにこの「積み木」は他人に崩されるものではなくて、あくまで自分が築き上げてきたものを、自分のミスで壊してしまい、最後は自分の手で台無しにする、そういう流れがあります。
胸の奥が柔らかくつねられて、涙が遠く奥の方から溢れてくるようです。
All or nothing、「すべてか全くの無か」のどちらか。うまくいかなかったものが中途半端に残っているのが気持ち悪くて、自分が思う通りの結果が手に入らないのであれば、もう何も要らない。自分の思い通りでないとき、「あ、そうですか、だったらいいです。」とふりきるようにして翻す感覚。
そこにあるのは誰のせいにもできない悔しさ。無情。誰でもない自分のせいであることの、やり場のない悲しみ。自分の愚かさを呪う気持ち。
しかし、周りには、根気よくその先の積み木を完成させるおともだちもいます。私はそういう子がとても苦手でした。なぜかというと、そういう子を見ると、どこか自分が否定されるような気持ちになったと思うんです。ちょっとの過ちに何もかも嫌になって癇癪を起こす、ちっぽけな自分をつきつけられているような、自分でも自分を許せなかったんだと思います。積み木の残りを自分の手で壊すことが、自分でも「違う」と思っていたのかもしれない。
自分の過ち、うまくできないこと、うまくいかないこと、悲しい気持ちになること、心が折れることに対して、心を翻してシャットアウトしてきた・・・そのことを当時の自分に謝って、「大丈夫だよ」とやさしく抱きしめてあげます。